</comment> <style type="text/css" media="all"><!--@import url(css/IE.css);--></style>

農薬ゼミの歴史

省農薬ミカン園はこうして始まった。
それから30年、今年もミカン山に通って行こう。

農薬中毒死から農薬裁判へ農薬裁判から省農薬ミカン園開墾これまでの活動概要

*珍しくない農薬中毒死から農薬裁判へ

 1960年から70年代中頃にかけて、日本農業は農薬万能、農薬多用の時代であった。毒性の強い農薬が主力を占め、農民の農薬中毒など珍しい出来事ではなかった。
そんな1968年に和歌山県海草郡下津町大窪のミカン園で悲惨中毒事故が発生した。当時高校生であった松本悟さんが両親とニッソールという殺虫剤をミカン園で散布したあとその農薬による急性中毒になり、治療もむなしく3日後に亡くなった。それほど特殊な事故ではなく、当時の農村では時として起こる事件であった。こんな場合、当該農薬会社から少し多めの香典が届けられ、よくあることと社会的には忘れられて行った。けれども、松本さんの両親と叔母さんは、「国が許可して販売されている農薬で中毒死するなんて納得できない。許可するのなら解毒剤くらい開発されているはずだ」と会社や農林省に質問を投げかけた。
 しかし、返ってきた回答は、ちゃんとした防護装備をつけて農薬を散布していたなら、中毒など起こるわけはなく、本人と両親の過失で中毒死したのであり、解毒剤などの開発義務はないから、責任は当事者側にあるというものだった。松本悟さんは当時としてはこれ以上できない防護をしていた。国や会社の回答に満足できない両親は国と会社の責任を追及するために裁判を始めた。「農薬裁判」とか「ニッソール裁判」と呼ばれた、農民が農薬問題を追求した我が国はじめての裁判が和歌山で始まった。1969年のことである。
 裁判は和歌山地裁で7年、大阪高裁で8年の審理ののち、1985年に16年にわたる裁判終結間近に大阪高裁の裁判長から和解してはどうかとの打診が原告と被告にあった。すでに16年の年月が経過し、原告の松本さんの疲れを感じていた支援する人々は松本さんの決断に従うことにした。そして、原告と会社との和解が成立してこの裁判は終結した。残念ながら、国は和解に応じなかったが、和解成立は我が国の裁判史上の画期的なできごとであり、原告の実質勝利であった。そして、この裁判はその後の日本の農薬問題に大きな影響を与えた。

松本さん夫妻(1985年和解成立後の会見)

上に戻る

*農薬裁判から省農薬ミカン園開墾

 戦後のミカン産地の拡大によって、ミカン生産量は戦前の80万トンから飛躍的に増加して1975年には350万トンに達していた。消費量にたいしてあきらかに過剰生産の時代であった。静岡、和歌山、愛媛の主生産地はもとより、九州地方の生産地ともども生き残りを賭けた産地間競争が熾烈になっていった。「きれいなミカンはおいしいミカン」という誤解が世の中に蔓延し、ひたすらきれいなミカンを作る競争である。唯一の手段は農薬を多用して病害虫を防除していた。農薬使用量が減ることはなかった。
 農薬裁判を闘っている間も、松本さんはミカン栽培を継続していた。農薬中毒問題の責任について争っている松本さんは農薬を使うミカン作りに疑問を持っていたが、農薬なしのミカンでは買い手(農協)が引き取ってくれない。それだからと言って農薬を多用したくない。このジレンマを側で見ていた松本さんの弟である仲田芳樹さんは、新たに開墾したミカン園で農薬を減らしたミカン作りを始めた。もちろん、当初は松本さんとの二人三脚であった。二人ともミカン作り数十年のベテラン農家であったが、農薬なしのミカン作りの経験はない。しかし、農薬を可能なかぎり減らす方向でのミカン栽培が始まった。面積は1haで、植えられたミカンの苗木は1,000本である。
 農薬裁判を研究者として支援していた石田はこの仲田の試みになにか協力はできないかと考えた。もちろん、ミカン栽培のことなどまったく知らない者にとって、農薬を多用する栽培も農薬を減らした栽培も両方と想像だにできないことである。そこで、石田は農薬ゼミのメンバーと相談をして、ミカン栽培の農作業は仲田にすべて任せるが、農薬を減らした栽培下ではどんな病気や害虫が発生するのかを記録することなら研究者として協力参加できる。栽培を進めながら、発生した問題を解決して行くしかないと思った。
 このようにして新しいミカン園が始まった。そして、このミカン園の栽培方針は、「農薬は省くべき存在であるが、省き方はいろいろあるだろう。風土により、栽培作物により、農家の技術によって異なるだろう。だから、省農薬をめざそう。それが、日本の農薬問題を解決する方向である」との議論を経て、おっかなびっくりの出発であった。
 爾来、このミカン園は「省農薬ミカン園」と呼称することになった。諸々の問題を克服しながら30年が経過し、毎年15トンから20トンの安定した生産量を維持するミカン園に成長した。一人の高校生の事故死から新たな農業を実現した仲田・松本兄弟の成果であり、農薬ゼミがこの大事業に参加協働できたのは幸運である。

上に戻る

*これまでの活動概要

 省農薬ミカン園の調査は農薬ゼミの歴史とともに、1978年からスタートしました。最初の2年間は試行錯誤の状態でしたが、1980年以降に現在のスタイルの病害虫の調査となりました。以後、毎年、夏の秋に定期調査が行われ、その結果が蓄積されています。
1986年に裁判の和解金で建てられた「悟の家」が建てられ調査の拠点とすることができるようになりました。定期調査以外にも市岡、浅井、松本らは「悟の家」を足場により詳しい学術的な調査を行っています。
 定期調査の成果については「農薬は減らせる」1・2・3の発行、「ミカン山から省農薬だより」(石田紀郎著)の出版によって公表されてきました。「ミカン山から省農薬だより」が出版されるころから、定期調査の参加人数も増え、常時、20人をこえるようになりました。
 省農薬のミカンは、病害虫を農薬を減らしていかに防ぐかという問題だけでなく、経済的な問題も私たちに突きつけてきます。省農薬ミカン園のミカンの販売は農薬ゼミで行っていますが、それでなければ市場にのらず経営は成り立たないでしょう。農薬ゼミでは、京都中央卸売市場や小売り店の聞き取り調査、団地での選好調査を行って流通に関しても調べてきました。その成果は1984年度に「「省農薬」ミカンの流通する可能性を探る」として発行されています。また、 1992年には省農薬にすることが農家の経営にどのようや影響をあたえるかについて調査が行われました。
 1996年には、省農薬ミカン園の調査を学術的にまとめた報告書「省農薬ミカン栽培の可能性〜病害虫被害解析と経済分析〜」が安田生命財団の助成によって完成しました。
 省農薬ミカン園調査が、農薬ゼミの主要な柱ですが、それ以外にもフィールド活動は行われています。その中で最も大きなものは高知ハウス園芸の調査 (1984〜1986)、全日農と協力しての無農薬実験田の調査(1989〜1992)です。前者は最も農薬が使われていると思われる農業、後者は日本人の主食という観点から取り組まれました。成果は、前者については報告書として発行、後者については「あぜみち通信」(京都全日農発行)として公表されています。
 近年は、ミカン園に間伐区を設けて間伐が病害虫やミカン収量、作業能率に与える影響を調べる調査も行っています。


過去の活動内容

上に戻る

Copyright (C) 2006 農薬ゼミ. All rights reserved.