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農薬裁判に関すること

by 和泉 賀津子(京都市職員保健所勤務)


 農薬ゼミの歴史をまとめるとき、農薬裁判は重要な位置を占める。ゼミがここまで続いてきたのは、省農薬ミカン園というフィールドがあったからこそであり、省農薬ミカン園が生まれるきっかけとなった農薬裁判について、少しまとめてみる。

<農薬裁判の経過>
 1967年7月14日、当時17才だった松本悟君(省農薬ミカン園オーナー仲田さんの甥にあたる)が、害虫防除のためにニッソールという農薬を5時間ほど散布した後に痙攣を起こし意識不明になった。病院で点滴や解毒剤といわれる粉剤の投与を受けたが、効果なく16日に死亡した。ニッソールは、日本曹達が1966年から低毒性を歌い文句に大々的に売り出した農薬であった。当時考えられる最も完全な服装で作業したにもかかわらず中毒するならば、農薬をまいた者の責任ではなく農薬の安全性に問題があるとして、悟君の親である松本武さんは裁判を決意する。
 69年9月6日、和歌山地方裁判所に対し提訴。松本武、エツコ夫妻は、殺虫剤「ニッソール」を製造販売した日本曹達とそれを許可した国を相手取り、3200万円の損害賠償を求めた。
 69年12月15日、第1回口頭弁論から審議が始まる。最初なかなか理解が得られなかったこの裁判も、少しずつその輪が広がり、村人の関心も高まっていった。しかし、77年和歌山地裁での判決は、完全敗訴であった。
 78年大阪高等裁判所に控訴。そのころには農薬をめぐるさまざまな問題が起こり、農薬が農家だけの問題ではないということも理解されるようになってきていた。84年最終の口頭弁論が終了した後、裁判所から双方に和解の打診があった。85年6月和解がなされ、農薬ニッソールのメーカーである日本曹達株式会社から、原告に1250万円の賠償金が支払われた。最後まで国の責任は問われなかったが、農薬会社が公の席上で補償金を支払ったのは、これが初めてであり、大きな成果であった。この裁判をきっかけにして、全国の農家が農薬中毒の責任をメーカーや国に問う道が開かれた。農薬裁判は、多量の農薬と化学肥料の上でしか成り立たなくなった日本の農業を、改めて問い直す重要な意義があったと言える。

<農薬ゼミと農薬裁判>
 裁判を全面的に支援していた婦人民主クラブが出している新聞「婦人民主新聞」で裁判のことを知った石田氏が、松本さんに手紙を出し、裁判の傍聴に出かけたのは、裁判が始まって1年位たった頃だった。その傍聴席で、大阪大学の中南さん、植村さん、田代さんなどに出会い、彼らを中心としたニッソール中毒研究会が73年に作られる。この研究会は裁判の準備書面の中の、農薬毒性の化学的根拠立証のための部分を作り上げる。
 裁判を続ける中で、松本さんは、「農薬の害を訴える農薬裁判の原告が、今も農薬を使ってミカンを作っている」ということに対する葛藤があり、弟の仲田さんとも話し合う中で、農薬を使わずにミカンを作ってみようということになる。これが省農薬ミカン園の誕生である。丁度、京都で農薬ゼミができかけていた頃であった。
 裁判が大阪高裁に移った頃、農芸科学の教官、学生を中心に農薬ゼミが開始される。農業を考える自主的な勉強会であった。ゼミ開始の半年後くらいに石田氏が勉強会の講師として呼ばれ、以後ゼミメンバーとなる。石田氏は、省農薬園ができて2-3年たった頃に見学にいき、そのことをきっかけに、農薬ゼミのメンバーはミカン園に通いはじめることになる。裁判は続いており、ゼミは農薬の問題が中心となっていく。裁判の準備書面の中にある、農薬の被曝量による中毒の認定調査は、ゼミのメンバーが中心になって行ったものであり、81年に石田氏が、証人として2度裁判の席に立っている。
 農薬ゼミがミカン園に通いだしてから、今年で17年。最初数人で始めた調査ですが、今はゼミの人数も増え、定期調査や草刈り、剪定、ミカンの収穫・販売など一年を通して、ゼミの活動の大きな柱となっている。

#その他の大きな公害裁判

  • 1967年 新潟水俣病訴訟
  • 1967年 四日市公害訴訟
  • 1968年 イタイイタイ病訴訟
  • 1969年 熊本水俣病訴訟
  • 1970年 カネミ油症訴訟
  • 1973年 森永ヒ素ミルク中毒訴訟
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