</comment> <style type="text/css" media="all"><!--@import url(css/IE.css);--></style>

96.2.2
フェミニズムと環境問題について

松田 史生(京都大学農学部農芸化学科四回生)


1. 導入

 フェミニズムについて紹介しようと思います。フェミニズム紹介をゼミで行なうにいたった理由は次の二点です。

 第一点に、環境問題についての文章やビラに、男女差別について考慮しているとはおもえないものが結構あると思えるからです。はっきり言って「環境問題をやっている人はアホだ」と呼ばれてもしょうがないほどデリカシーに欠けているので、少しはお勉強してみましょうと思いました。ジェンダーの社会学が行ってきた性差の研究を紹介します。

 第二点に、いわゆるフェミニズムについてわれわれはそれとなく知っているのが普通ですが、「男女差別はよくない男女は平等家事も平等共働きもどんどんやって」というのは実はフェミニズムという運動の理念であって、理念がいくらすばらしくてもそれを実現する戦略(現行の制度の批判と変更を標榜する運動体は現実と戦争をするのですから、戦い抜くには綿密な戦略が必要です。)とそれを支える理論がとても重要になってきます。理論にも机上の空論とか暴論とかいろいろあると思うのですけれど、ここで紹介するのはマルクス主義フェミニズム(マルクス主義者のフェミニズムではなくて、フェミニストがマルクス主義の手法を利用した)の行った理論化です。マルクス主義フェミニズムは「現代社会の中でなぜ女性は差別されるのか」ということについてその理由を追及してきました。

 環境問題となると、理念といえば、自然との調和とか、まあそういうもので、理論というと、このままでは地球はやばい(ハルマゲドン?)、それは西洋近代という文明がよくない。今こそ東洋の無の思想にもとずいた新しい価値観をつくりだし(修行をつみ?)、地球に優しい生活をとりもどすのだ(おチャクラ全開悟りでGo?)、などと某教団とたいして違わないことを言い出す人が多いくらいですから、環境問題は理論面がとても弱いと言えます。ですからマルクス主義フェミニズムの問題の立て方や理論化の手法は環境問題の弱点克復にとても参考になるのではないかと考えます。



2. マルクス主義フェミニズム

 男女差別は存在しています。かつては公然のことであり、今では存在してはならないとされていて、だれもがまるでそんなものは存在しないかのように振る舞ったこともあったようですが、ちょっと不況になると就職差別という形ではっきりと表面化しました。また、いろいろいわれたにせよやはり、家事は主婦=女性の労働のようです。洗濯機のCMで洗濯をするのは実際に妻で母になった松阪慶子であったり、その洗濯機にぶち込む洗剤を選ぶときに大事なのは夫もしくは息子(娘のことはあまりないですね)に誰よりも白いシャツを着せてあげることができる洗剤であり、それにより、妻である自分の内助の功を示すことができるわけです(注1)。

 マルクス主義フェミニズムはこういった現状に対して「なぜ女性は差別されるのか」という問題を立て、それを「なぜ女性の労働は二流なのか」と読みかえました。

 労働者は労働を資本家に売って生活しているのですが、その時労働に値段が付けられます。この値段が付けられるとき、女性の労働が二流の労働として安く買いたたかれるつまり、女性の就職が難しいとか就職しても昇給が男性よりも遅い、そもそも賃金が男性よりも低いということを問題にしたのです。労働を安く買いたたかれるましてや就職できないということは経済的に生活を成り立たせることができないという点でほかのどの事柄よりも中心的な問題となります。

 また、結婚して仕事をやめて(やめなくても)主婦になると家事をすることになります。マルクス主義フェミニズムが一番問題にしてきたのが、この「家事」を女性がすることになっているということでした。

 社会学者の上野千鶴子氏は「家父長制と資本制」という著書の中でこれらを「資本制」と「家父長制」という二つの制度の共謀による構造的な搾取であると説明しました。まとめると次のようになります。


 社会主義婦人開放論が、性という階級を発見し、70年代後半のラディカル・フェミニズムがフロイト理論の影響をうけて、「性と世代間の抑圧的な差別の構造を組み込んだ、「家父長制 patriarchy 」とよばれる歴史的形態」が市場原理の及ばない「家族」の中にあることを発見した。ここで興味深いのは、上野氏が市場の限界つまりは近代の限界である、市場の外にあるものとして「家族」と「自然」を挙げ、その類似性を示している点である。同様の指摘は、環境保護論者からも度々行われている。つまり、市場は外部という「自然」「家族」気にしなくてもいいくらい外部は広大であったのが、ここ20年ほどは、その広大さにも限界があったことを市場が気がついたということになる。マルクス主義フェミニズムは以上をふまえた上で、社会主義人間開放論からは、近代産業社会における階級支配のあり方として、「資本制 capitalism」をうけつぎ、ラディカル・フェミニズムからは、ブルジョア単婚家族における性支配の様式としての、「家父長制」をうけついだが、一方を一方に従属させる一元説はとらずに、この二つを独立した様式とみなし、これらの相互の共謀関係を問題視する。つまり女性は資本制だけでなく家父長制からも抑圧を受けているとする。さらにこの視点から、この女性への二重の抑圧は、近代の不徹底ではなく、近代という社会の様式に組み込まれた、近代的な抑圧であるということを示そうとする。この二元論ため議論はかなりややこしくなっているとおもわれるが、この問題自体のややこしさを示しているといえる。

 マルクス主義フェミニズムの第一の成果は、「家事労働」の発見であった。家事労働は何も価値を産み出さないとして、労働ではないとされてきたが、家事労働はブルジョワ単婚家庭では、夫の生産労働をサポートするために必要な労働であり、育児は将来の労働者を市場に供給するための労働である。しかも、夫や資本家たちはこの労働に賃金を支払っていない。つまり女性は不払労働によって、構造的に搾取を受けている。資本制はこれによって、労働者の短いサイクルでの再生産(家事労働)も長いサイクルの再生産(育児)も極めて低コストで実現しており、さらに、その搾取=支配関係を維持するために、女性をなるたけ賃労働から排除し、女性の労働を2流のものであるとしてきた。つまり、女性は育児という3年程度の生産労働が育児と両立しない期間があるという理由で、女性の労働は2流になるのであり、2流であるがゆえに、育児を女性がしなくてはならなくなるのである。

 また、近代初期とは異なり、現代は慢性的な労働者不足であって、女性に労働者として働いてもらう必要性が出てきた。家庭としても、子供の教育費用に金がかかりすぎるようになり、夫一人の収入では家計が苦しくなっている。資本制にしてみれば、労働者の賃金は安いほうがよく、家父長性は女性を賃労働からなるたけ排除したい。女性もフルタイムで働くのは、家事育児ができなくなるから、(ここで注意すべきはフルタイム労働というのは、家事労働をしなくていい人のための労働であろう。)ということで発明されたのが、「パートタイム労働」である。パートタイムも資本制と家父長制が結託して産み出した、搾取の様式といえるだろう。


 つまり、資本制は家父長制を利用して労働者の再生産をただにすることができ、家父長制には資本制に女性の労働を2流にしてもらうことで、家父長制を維持することができるという、資本制と家父長制の共謀によって女性が搾取されているというのがマルクス主義フェミニズムの主張です。

 ここで特に注意が必要なのは以上の説明が制度をめぐる物であるということです。制度とは社会の仕組みそのもののことです。国家とか、学校とか、そういう物のことだと思えばよいのですが、当然その中に家族も含まれます。家族とは比較的個人的な物だと思われますが、夫婦間の姓の問題のようにある程度は法的な存在であるのはもちろんのこと、たとえば、結婚したときにどちらの姓を名乗るのかは全くの任意であるにも関わらずとても偏っているように、法的な制度とは別の「規範としての」制度が家族を考えるときにとても重要になります。規範としての制度とは法律でも何でもなく多くの人が「こういうものだ」と思っているということです。(女性は結婚したら家事をするもんだ)制度は個人的な物ではありません。にもかかわらず、個人の行動に介入してして個人の行動がいいことなのか悪いことなのか決めるものです。

 フェミニズムは「家事」も制度であるとかんがえています。制度として「家事」は女性がすることになっており、そうしやすいように社会ができていて、しかも家事が無給のただ働きである以上、「家事を夫婦で分担すればいい」という個人レベルでの解決を目指すことは、意識の上では大切であるのはいうまでもありませんが、「規範としての」制度についても同時に問題にしない限り、根本的解決は難しい物となるいうことです。

 ですからマルクス主義フェミニズムはこの文脈の中で「規範としての愛」をイデオロギーとして批判してきました。別に個人個人の愛をダメといっているのではありません。テレビドラマやCMでくりかえされ、みんながいいなと思ってしまうような「愛」とか「愛に支えられた幸福な家族」というイメージを批判しているのです。テレビドラマでくり返される愛とは女性が男性と出会って結婚するという物語であるととらえ、資本制と家父長制はその物語を徹底的に美化、神聖化することで、結婚した女性に家事労働をやってもらうためのイデオロギー操作をしていると批判します。(10年目の結婚記念日に感謝のダイアモンドのリングを、飲み屋で同僚にはそんなものはうちには必要がないとかいいながら、家で待っている奥さんに玄関でわたすとき、受け取る側の奥さんは夫の愛に感動するのが紋切り型のよい奥さんなのでしょうけれど、ここで「ボーナスは月給の最低2カ月分でなくっちゃ満足できないわ。このダイヤたぶんどんなに高くて100万はしないと思うから80万として10年分で1年につき8万、8万が2ヶ月分なので1月で4万。わたしの月給は4万だっていうのふざけるんじゃないわよパールのネックレスの買ってくれなくちゃいやよこうなったら家事の手を抜くしかないわね。ほかにすることもないけど」などと考えたりはしないのでしょうか)

 以上の理論化により、フェミニズムは理念を実現するためのケンカの相手を社会の中で特定することができるようになりました。つまり、女性の労働が二流なのは資本制と家父長制とそれに荷担する人たちが悪いのであって、そいつらとケンカをして引き分ければよいのだということになります。



3. ジェンダーの社会学

 男性と女性との違い(性差)とはなんでしょうか。女性は男性より劣っているのでしょうか。よく女性は感情的で男性は理性的だとかいいますが、そもそも性差とはどういうものなのでしょう。

 この問題はフェミニズムにとって常に中心的な問題でした。

 ジェンダー(gender)という言葉を最近よく聞きますがこれは、生物学的区分である性(sex)と社会的文化的な性差を区別するために70年代にフェミニズムが作り出した用語です。逆に言えば、sexとgenderが長い間混同されてきたことになります。たとえば、女性は体力的に男性に劣る。よって女性は男性の庇護のもとに生活する必要があった。よって家事は女性の労働なのだ。みたいな説明がなされてきた歴史があるのです。

 また、女性は性格的にも男性より劣るという性差存在の理論的根拠もありました。有名なフロイトの学説です。それによると、性差は生まれつき (by nature) 存在します。エディプスの三角形として有名な理論からペニスのあるなしがその後の性格形成一切を決定するというのです。そのなかで女性は男性より劣った性格形成を行うとされました。つまり、sexとgenderは同じものだったのです。この説はとても支配的でした。ですから、フェミニズムの歴史はこの学説からの逃走の歴史とも言えます。

 1976年にアメリカで性の署名という本が出版されました。その本で、医者であったMoney.J と P.Tuckerは患者の観察から、生物学的性には明快な区別がなく、また、Sexとgenderに関係がないと結論しました。生物学的性は外見やホルモンなどの内分泌や遺伝子(XX、XY)で決定することができますが、そのどのレベルでも性を明確に区別することができないのです。にもかかわらず、小学校の名簿に男と女しかないように、社会的文化的な性は人間に男か女のどちらかであることを強要します。

 一般に生物学的性は外見によって生まれてすぐに決定されますが、その時にしばしば間違いが生じることがあるようです。これを性誤認といいます。

 マネーとタッカーは性診療の医者として性転換希望者の相談と指導をしていました。性転換希望者には第二次成長期に性誤認に気が付いた人が多くいました。女性として育てられたのに髭がはえてきたとか、いつまで立っても初潮がないとか、その逆もありますが、普通そのような人に対してカウンセラーは自分の性自認(自分で自分のことを男か女かのどちらかだと思うこと)を変更するようにすすめます。そのほうが費用もかからず、身体的な苦痛もすくないからです。しかし、二人は患者の性自認はその年齢までには強固に形成されていて、それを変更するのは難しく、それを強制するとアイデンティティーの危機から患者を自殺させかねないことを発見しました。多くの患者は苦痛の多い、肉体の改造を行ってまで、自分の性自認に生物学的性をあわせようとしたのです。

 性自認は二歳の言語の獲得時期と同じ頃に決まってしまい、それ以後変化しないということがわかっています。つまり、自分を男であると思うか、女であると思うかというレベルの性は生物学的なペニスのあるなしで決定するのではなく、男として、女として育てられるかということが決定していると言えます。社会的文化的な性は性自認によって決まりますから、sexとgenderとは別のものであり、普通の生活の中での性とは社会文化的な性のことに他なりませんから、genderの方が性に言及するにあたって重要であるということになります。よく、科学雑誌などに男女の能力の比較に男性は空間の理解にすぐれ、女性は言語能力に優れているという記事がありますが、それは生まれつきそうなんだということではなく、男として育てられるか、女として育てられるかの違いといういうことに注意して下さい。

 この次に、社会的文化的な性差が問題にされました。男と女は違う。ではそのとき、男と女はどう違うのか。いいかえれば男と女という性の関係(すなわちジェンダー)を問うことになります。この男女の関係をフランスの社会学者Delphyは次のように表現しました。


 ジェンダーの問題枠組みの中に男性を位置付けるなら、男性はまず、何よりも支配するものになる。男性に似るということは、支配するものになるということである。しかし、支配者になるためには、支配するものが必要になってくる。皆が”いちばんの”お金持ちである社会が考えられないように、全員が支配者である社会は考えられない。


 つまり、女性は男性から支配されるものとして、社会的な役割が与えられるというのです。 このことは、マルクス主義フェミニズムの所でのべた、労働者とその妻の関係を思い出してください。

 マルクス主義フェミニズムは家事労働というどう考えても割の合わない労働を資本制と家父長制が共謀して女性に押しつけているんだと主張しています。ここで気付かれるべきは、たとえ男性と女性が入れ替わっても、家事労働になう人々の男女の比率がどうあろうとも、家事労働をさせる側/させられる側という関係は変わらないということです。デルフィがいったのはこのさせる側/させられる側という違いがジェンダーであり、させる側になるのが社会的文化的な性でいう男性、させられる側が女性のことで、そのどちらかに人間を仕分けるときに生物学的な性が利用されているんだということなのです。(ペニスがあるから男として育てられる)

 フェミニズムの用語ではこのさせる側/させられる側という関係を支配/被支配の権力関係と呼び、政治的な問題(注2)として捉えています。権力の問題についてはフーコーというフランスの理論家の人がとっても難しい理論で精緻に検討していて、理論的にはほぼ完璧です。しかも、こういった問題を扱っている人々は文芸批評家とか社会学者とか、歴史学者とか、その道のプロですから、しろうとのわれわれがのこのこと出かけていって「環境ばんざい」とかいっても、相手にされないか僕らにはばかにされていることが分からないような難しいやり方でばかにされるのがオチになると思います。



4. フェミニズムと環境問題

 さて以上のお勉強の練習問題として、環境問題とフェミニズム理論について考えてみたいと思います。

 環境問題とフェミニズムは家族という領域で決定的に重なり合うと思います。

 フェミニズムをふまえて「家族」のことを考えるとき、その家族という概念がどのような家族を前提としているかということに注意する必要があります。

 フェミニズムにとって今現在の家族制度とはマルクス主義フェミニズムの所で見てきたように男女間の支配/被支配という権力が行使されている現場であり、その解体が要求されています。

 ですから、家族制度に関わる思想や運動は現在の家族制度を前提として利用することやそこでの権力関係に無自覚であることは許されません。無自覚である、前提とするということはひっくり返して言うならば、その権力を容認し、強化することになりかねないからです。

 環境問題にとって家族とは環境問題を解決するための主体であり、その生活の中に新たな倫理=規範を導入することを期待しているように思えます。つまり、何を食べるのか、どのようなライフスタイルを選択するのか、洗剤は石鹸を選び、ごみを減らして、無農薬の野菜を買うという生活を実践することを家族のレベルで行おうとしていると言えます。

 このとき、野菜を選ぶ、プラスチックトレーを洗ってリサイクルまでもっていくといった行為は、無報酬の家事労働として現在の家族制度の中で家事をしてきた人(つまり主婦としての女性)によって主に担われていると思います。


 環境問題はこういった労働を「地球に優しい」として賞賛しています。しかし「地球に優しい」というのは確かに優しいのだろうけど、そのことを主婦の家事労働の増加を容認させる口実にしてしまっている点で批判は免れません。

 ゼミでの発表でこのような発表をすると、次のような意見がありました。「今あげたような活動は女性が自分たちの生活の中でできることを始めたのであり、女性がそういった政治的な活動や発言をできるようになったという意味でそういった活動は評価されるべきだ」というものです。僕もこの意見に異論はないのですが、そういう活動を「愛する家族」のための、主婦にしかできない活動(平日の昼間に配送される産直野菜を主婦以外の誰が受け取れるのでしょう?)に終わらせるのではなく、いかにしてその中に家族の他のメンバー(夫、子供、姑、共働きの家庭、一人暮らし、母子家庭 etc.)を巻き込んでいくかということをもっと考えてもいいと思うのです。そしてそのどさくさの中で、支配/被支配の権力関係を無効にするような企てを試みることができると思います。

 環境問題は家族を制度として再評価しているようですが、フェミニズムが批判する近代的家族制度に対する評価であってはならないことは間違いありません。環境問題に関する言説はそのことに相当自覚的でなくてはならないでしょう。環境問題は家族内の倫理に介入していくことで、その家族制度そのものをより望ましい形に作りかえる可能性をもっています。しかし、現状はむしろ現在の家族制度のはらむ政治的な問題にとても無関心なのではないでしょうか。環境問題をめぐる運動がとりあえず革新なのにどっちかというと反動ととらえるしかないのはこの点が大きいのではないかと思います。

 上野氏は「家父長制と資本制」の中で資本制にとって女性と自然は市場の外にあるという意味でフェミニズムと環境問題の類似性を指摘しています。そこで、フェミニズムの議論をそのまんま環境問題に応用すると「自然は資本によって搾取されている。その搾取の様式を解明し、人間/自然という二項間の政治的な関係を暴くことで、自然の解放のための理論を建設するのだ」というふうになると思うのですけれど、この時点で難しい問題に直面しています。

 まず第一に自然とは何かということです。ここで注意したいのは「自然とはこうこうこうでこういうものである」という定義をしようとか、生態学的に自然について考えようといっているのではなく、われわれが常日頃無意識的にもっていて、しかも広く共有されているイメージとしての自然とはどのようなものであるのかということです。フェミニズムが生物学的な性(セックス)と社会的文化的な性(ジェンダー)を区別しているように、十万年といったスパンで語られる生態学的自然とわれわれの生活様式(資本制、家父長制その他諸々を含めた)の中で立ち現れる自然を区別して考えることを試みるべきだと思います。「共生」という言葉が持つ意味が生態学と環境思想とで全く異なるにも関わらず(わざと?)混同して用いられ、混乱しているのもこの理由によります。Ecology という単語自体既にそうです。 つぎに、自然の解放とは一体何なんだということが問題となるでしょう。それは結局人間の解放のことなのだと思います。

 今のところ、人類がみなトランスパーソナルに自然と一体であると悟りを開けるようにしようなどという、内向的でナルシスティックな展望が環境の分野ではハバをきかせていますが、というか環境思想そのものがインドで悟りを開いて返ってきたような人が始めたことなので当然といえば当然ですけれども、そこで考えられていた精神的な修練がいつの間にやら、いわゆる教祖様の書いた本をたくさん買った人が偉くなれるという「悟りを開いた度レース」になってしまったように、それとそっくりそのままの「環境にやさしい度レース」がいつの間にやら始まっていて、そういう「何とかレース」が極端になるとナショナリズムとかファシズムというものになるのはいうまでもありません。いまの環境問題にはこういう傾向が多分に存在していると思います。環境問題が重要であるという認識が一般になるにつれてそういった傾向のもつ危険性は無視できないほどになっていると思います。

むしろ、自然と人間との多様な関係(下心ミエミエのやさしいなんてどうでもいい)を可能にできるような解放として展望するべきだ思うのですがこの辺のことはまた。



注1

 ここでCMを例に挙げることに疑問を感じられる人もいると思います。広告というのは多くにとって心地よくわかりやすいものであるのが普通です。広告が作り出すイメージは多くの人にとって受け入れやすい願望であり、おおくの場合、その宣伝をみてその願望に気が付くようにできているのではないかと考えます。ですから、洗剤とか、家とか、冷蔵庫とか、そういうものの広告のイメージをそのまま読みとることは差別のような問題を社会のスケールで捉えるときに重要であるといえます。ただし、こういったイメージを引用して説明するときにそのイメージがはたして、現実を理解するのに妥当なものかという検討は必須です。また、その捉え方に当てはまらない人がいることも承知の上であえてそういう一般化をしているのです。


注2

 京大生には政治的という言葉にネガティブなイメージを持つ人が多いと思います。それはすべてのことは政治的なんだといって、農学部の自治会の総会に皇太子の婚儀に反対しようというきわめて政治的な議案を提案するような連中が悪いのですが(べつに提案することが悪いのではなくて、うぶな学生にとって政治的とは天皇制に反対することなんだと思わせてびびらせてしまって結局自分のシンパの獲得に失敗する提案者の戦略ミスが悪いのですけど)、ここでいう政治的とはそういう大きな政治を言うのではなくて(無関係とはいいませんが)、もっと小さな個人的な政治のことです。たとえば、夫と妻の関係、親と子供の関係、教師と生徒の関係のようなもの、もっと小さくなると男性は男らしく、女性は女らしく生活することが<強要>される。太るのが恐ろしい。体臭が気になる。そんなレベルでの政治です。



参考文献
・ 資本制と家父長制 上野千鶴子:岩波書店
・ 上野千鶴子氏が1994年11月4日に京都大学で行った特別講義のノート



 

Copyright (C) 2006 農薬ゼミ. All rights reserved.