私たち農薬ゼミは、和歌山県下津町にあるミカン園にて、春・夏・秋の調査、収穫や選定作業のお手伝いなどを行っています。
その下津町がどのような町なのか調べてみました。
歴史をたどる|
今を知る|
参考資料
最も古い記録
加茂谷(現在の下津町初島町)における柑橘栽培のはじまりは、室町末期頃と思われます。現存する史料で一番古いのは、『慶長御検地帳』です。検地帳作成は慶長6年(1601)ですが、記録からその時の樹齢が60歳ぐらいと考えられるので、1540年頃に植えられたと思われます。田や畑と並んでミカン畑が記載されていましたが、収穫量は少なく年貢の対象とはなっていなかったようです。
江戸時代
ミカン産地・和歌山の誕生
紀州藩によってミカン栽培が保護奨励されたこと、気候が柑橘栽培に適していること、上方に近く海上輸送が便であったことなどから、自給的果樹作から商品的果樹作に移っていき、ミカン産地・和歌山が誕生しました。
江戸進出
さらなる経営展開をめざし、江戸市場へと販路を拡大しました。その中で、複数の農家からのミカンを一括して江戸へ出荷する「蜜柑方」という組織ができあがりました。余談ですが、紀伊国屋文左衛門さんが嵐の中江戸へミカンを運んだかの有名なミカン船の話について、彼のような個人商人がこの出荷システムの中へ入っていけたかどうか…、疑問の声もあるようです。
明治
植栽量・販売経路の飛躍
日本のミカン栽植の第一回目の増加期は明治13年(1880)からとされています。関西線が全通して汽車輸送が可能になり(明治33年)新たな出荷経路ができた他、紀北から満州や朝鮮への輸出も盛んになってきました(明治43年)。
大正〜昭和初期
さらに商業的なミカン栽培へ
他産地の生産増加が目立ち、市場における販売競争がはじまり、品種の更新、品質の改善、経営の合理化を図らねばならなくなってきました。科学の進歩、交通の発達と共に栽培技術と販売の革新が要求され逐次改善されていきました。
品種…………紀州みかん、八代(やつしろ)、柑子(こうじ)などから、温州みかん、ネーブルオレンジなどの優良品種へ。
施肥…………魚肥のみに頼っていたが、大豆粕、化学肥料を取り入れた配合肥料などへ。
病害虫防除…放任主義であったが、ボルドー液をはじめ石灰硫黄合剤、松脂合剤、石油乳剤、マシン油乳剤などの薬剤使用へ。
販売の一大転換期…「浜出し」から陸路で直接中央市場へ
陸路で直接京都中央市場へ送り出すのに、この地域は大変有利であったということももちろんですが、従来の一方的な浜問屋独特の値付け方法への抵抗という意味もあったようで、競り市による正当な自由価格を要求した行動ともいえます。昭和初期から第2次世界大戦まで、京都市場のミカン消費量の約90%は和歌山県に依存していました。
戦争の爪痕
戦争中は食糧増産に力を入れねばならなくなったため、果樹への肥料は規制され、農地作付け統制規則が実施され、強制的な主食生産への転換が行われました。ミカンは永年作物のため、終戦後もその影響が長く続きました。昭和27年(1952)になってようやく戦前の出荷量まで復帰することが出来ました。
終戦直後の物資不足は食料をはじめとする衣食住の充足を目的としましたが、昭和30年(1955)頃から生活物資の供給が潤沢になり始め、昭和35年(1960)頃から農業の分業化が急速に進み、ミカン作への単作化が進みました。
他産地との攻防
戦後の混乱も落ち着き、全国各地で生産量が増加してきたため市場占有率が伸び悩み、下津(だけでなく和歌山全体の)みかんは新規市場開拓を迫られました。そんな中、昭和34年(1959)に全国初の「ミカン専用列車」が実現し、11月から12月の間、東京・北海道へ毎日一便が運行されました。
昭和47年(1972)の大豊作
戦後の果実消費の急増に支えられ全国的に増殖をしてきたミカンも昭和43年(1968)の豊作によって急激に伸び、計画生産量を上回る状態になり、ついに価格が暴落しました。さらなる植栽で、昭和47年(1972年)には計画見込み面積15万4000haに対して17万1300haにも達しました。下津町においても、昭和30年(1955)を100とした指数に対し、昭和47年(1972)では630と、驚異的な伸びを示しています。(全国では774,和歌山では794であった)
全国平均ミカン農家の1日家族労働報酬調査『農林統計』によると、昭和46年(1971)に4091円であったものが、昭和47年には1570円と下落しています。
一方、経営面から昭和47年の生産費並びに所得調査を見ると、全国平均10アールあたり7730円の赤字、和歌山県では3万9372円の赤字となっています。
△上に戻る
農業に関するデータを中心に、下津町がどのような町なのか見てみましょう。
仲田さんの園がある大窪集落を含む加茂地区は、下津町の中で最も多くの農家がある地区です。また、仁義地区につづいて2番目に総戸数における農家の割合が大きくなっています。
1980年代から、下津町における果樹農家数の減少が見られます。この原因の一つとして、1979年(昭和54年)に始まった温州みかん転換促進事業(みかん減反政策)が関係していると考えられます。仲田さんのいる大窪集落では1970年に60戸程であった果樹農家数が2000年の調査では30戸余りとなり、約半数になりました。
経営耕地面積0.5〜2.0haの農家が大半を占めています。仲田さんの園もこの中に入ります。また、農家全体の戸数は年々減っていますが、大きな耕地面積の農家の割合が増加する傾向にあり、経営の大規模化が伺われます。
70年から75年にかけて大きく兼業農家の割合が増加しています。この原因の一つとして、72年の大豊作による価格の暴落と関係があるのではないかと考えられます。
下津町では、耕地はほぼ果樹園となっています。果樹園自体は、近年(特にここ10年ぐらい)減少傾向にあります。また、1979年の温州みかん転換促進事業(みかん減反政策)の後、80年から85年の間に急激に経営耕地面積が減少している様子がわかります。
全体的に高齢化が進んでいます。特に大窪集落では、2000年についに男性の半数以上が65歳以上となりました。仲田さんもその一人です。
以上のように、下津町におけるミカン栽培は厳しい現状にあるようですが、そんな中でもミカンを作り続けている農家の方々に下津ミカンは支えられているといえるでしょう。私たちのお手伝いしているミカン園でも、可能な限り皆様においしいミカンをお届けし続けたいと思います。
△上に戻る
下津町史編集委員会編『下津町史』(通史篇)
農林水産省統計情報部編『2000年世界農林業センサス結果報告書第1巻(農業編)』
下津町 http://www.town.shimotsu.wakayama.jp/
JA下津 http://www.vaw.ne.jp/shop/jashimotsu/
2002年度下津町統計資料 http://www.town.shimotsu.wakayama.jp/2002toukei.html
注:図はすべて『2000年世界農林業センサス結果報告書第1巻(農業編)』のデータから作成しました。
△上に戻る
Copyright (C) 2006 農薬ゼミ. All rights reserved.